使い捨て。

暑くなった。
街をぶらぶら歩いていたら、プラスチック製のうちわを配っていて。
思ったこと。

このうちわ、帰ったら捨てるだろう。
一生使う何てことは絶対にない。
ましてや子供に引き継いでいくようなものでは絶対にない。

ビニール傘もそうだ。

雨が降ったら、買って持って帰るが、
気づいた時には何処かにいってる。


すぐに新しいものに換える。
物への思い入れが無い。
完全に無い。


流行り廃りが激しくて、常に新しいものを求める。
資本主義のこの世の中では普通のことだ。

そのような世の中の仕組み。
何かが壊れた時、
修理をするより新しいものを買う方が安いことがしょっちゅうある。
壊れたのはたったひとつの部品で、それ以外は全く壊れてもいないのに。
使えるのに。


人間だってほとんど使い捨てだ。
歳をとると新しいものにはついていけない。
自分の知っている世の中がガラリと変わり、知らない世の中。
老人は大事にされない。
彼らから得るものが無いからだ。
ビニール傘と同じ運命だ。



これが本当に正しいのか?
このままでいいのか?


みんな疲れてきているはずだ。
一生新しいものを求めるように踊らされることに。

大体、このやり方は日本に合っていないと思う。
日本は古いものを大事にする文化が根付いている。

金継

割れた陶器、漆器などを修復する伝統的な技術。
壊れたことが新しい価値を生む。


このようなやり方が大量消費されている商品に使えないかというと、
そうではない。

むしろ、3Dプリンターなど、
メーカーズの流れが押し寄せ、
誰もが簡単に物を作れるようになった今こそ、
大量消費のやり方を見直す絶好の機会だ。


資本主義が支配したこの世の中に、
一石投じようと思う。

愛のこと。

朝起きて、目が覚めて、hagiさんぼんやり考えた。

 

愛ってなんだろう。

 

 

ふざけていません、真面目です。真面目だ。

こんな記事を読んだ。

 

愛について君は何を知っている ホンダの「ワイガヤ」(3) :日本経済新聞

 

すごく残った言葉がある。

ハードウエアには、前に“愛”が付く物と付かない物があるんじゃないか 

自分が愛するハードウェアは、

Mac、iPhoneiPadOLYMPUS-PEN、自転車、あとはヘッドホンくらいか。

リンゴ信者気持ち悪いという批判はさておこう。

 

製品を作る際、愛がつかないものは定量化出来るもので評価でき、愛がつくものは情緒的なものが必要というわけだ。

 

なるほどなと思った。

 

ここで、将来こういう製品に携わる人間として、愛してもらえる条件、が何なのか気になった。

 

同じものでも愛する人と愛さない人がいるのだから(母親はダイソンの掃除機を愛している)、それぞれの感じ方によることは間違いない。

しかし、決して愛がつかない製品があるし、多くのひとにとって愛がつく製品がある。

これがあればすべての人に必ず愛してもらえるというものは無いかもしれないが、愛してもらうために必要な条件は必ずあるはずだ。

 

生活必需品ではない、趣味の色が強いものは愛がつくことが多いように思う(カメラ等)。

だが、車が生活必需品な人もいるし、物のカテゴリーによって決まるわけでもない。

 

2、3日、ぼんやり考えて、

作り手と使い手の距離が短ければ短いほど愛がつくことが多いのではないか

という結論に至った。

ハンドメイドの物には愛がつくことが多い(手編みマフラーとか?)。

使い手から作り手のことがよく見える製品には愛がつきやすいということ。

 

ある意味、個性の強い(作った人の個性が出る)製品が愛される傾向にある。

デザインも、技術も、本当にさまざまなことが複合的に愛される製品を生み出すだろう。

だが、不可欠なものがある。

作り手が使い手のことを考え抜いているか、

ということだ。

これ無しに愛のつく製品は作ることが出来ない。

 

自分が愛される製品をつくるためには、出来るだけそういった製品に触れることだと思う。

実際に触って、使ってみて、ひとつひとつ感じていくしかない。

 

これからは、もっと丁寧に、色々なものに触れたい。

愛される製品を作りたい。